まだまだ・思い出してみる
金曜の地震から2日目の日曜日。
水と食料確保のため並び続けた。
朝から動いて夕方に戻る。
水は役場に、食料はスーパーに家族で分かれて。
人間の食料とは別にネコの食料確保にペットショップにも並んだな。
このネコがいたおかげでどれだけ癒されたことか。
ホントにコイツは来るべくしてウチにやってきたんじゃないかと思ったな。
この日の夜10時過ぎだったろうか、電気が戻った。
電気は地上にあることが多いので復旧は比較的早いそうだ。
ここでやっと今回の震災の全容を知ることができた。
津波の映像を見て愕然とした。
明けて月曜。
仕事にはならんだろうが1人で玉屋デザインズへ。
驚いたことに私より先にスタッフがやってきていた。
金曜の別れ際にいつから店を開けるとかその辺の話はしていなかったんで、この状況で出てきてくれるとはありがたい。
玉屋デザインズとしてのこの先の見通しは全くない。
存続も出来るかわからない。
「1週間は仕事はいいから、自分が生きていくことを最優先にしてくれ」
とか言ったと思う。
とりあえず1週間は店に出なくて良いと伝えてた。
土曜は出ていた店の水が出なくなっていた。
火曜日。
こまごまと片づけやら整理やらのため玉屋デザインズへ。
その日にやらなければならないことでもなかったのだが、店を開けているとお客さんは来ないが知人友人が顔を出してくれる。
皆の安否や買出しの情報を交換できる。
通常午後7時までの営業なのだが5時までとしたがかなり流動的に。
玉屋、自宅付近は明かりが戻っていたが、いまだ暗闇の町も結構ある。
渋滞は解消され、逆に車の通りも少ない暗い待ちを通るのは妙に不気味だった。
水曜日。
玉屋デザインズへ。
漠然と頭にあった「がんばろうTOHOKU」を作ってみる。
ワッペンのこと。
作ってどうするとかは何もない。
この頃の被災地では何処までホントの話かわからないがかなり物騒な噂も出ていた。
全て事実ではないだろうが本当にあってもおかしくない空気は間違いなくあった。
実際にしばらくしてATMの襲撃などは検挙されていたから。
小学校からの同級生YからTEL。
彼は仙台市内で中古車販売店を経営している。
ガソリン目当ての車上荒しに合う前に展示車からガソリン抜くから分けてくれた。
ありがたい話だ。
ガソリンは何時間もならんで結局買えないこともあるこの時期に確実に手に入るわけだから。
お礼といってはなんだが缶コーヒーを数本。
タバコを始め嗜好品も結構貴重品だった。
木曜日。
瓦が無残にも落ちた屋根を実兄と修理。
まだまだ雪も降る季節、早いところ雨漏り対策をしないと、預かっている商品や機材を守らねば。
機材がだめになったら再建どころではない。
まあ、再建の目処も立っていなかったが。
かき集めたブルーシートを一面に、風で飛ばないように木片で押さえて留めていく。
このあとどうするかは決まっていないが取り合えずだった。
結局半年後もこの屋根をどうするかは決まらず、同級生Yと二人でブルーシートを張り替えた。
金曜、土曜。
食料確保に並ぶ。
テレビでも給水やスーパーの営業情報を常にテロップで流されている。
必然的に倍率が高くなって列は伸びた。
1週間たってもこれからどうしたものか先が見えない。
「やらねばならない」と「あきらめ」が交互にやってくる。
日曜。
震災後初の外食。
近所のラーメン店が仮オープン。
ラーメン食べて涙が出た。
そして実家で電熱ヒーターでお湯を沸かして震災後初の入浴。
身も心もいくらかサッパリ。
こんな感じでしばらく進んで行ったわけです。
木曜。
「がんばろうTOHOKU」の話を知人とはなしていたところ、東京の書道家「うどよし」さんの話を教えてもらう。
日の丸をあしらった「がんばろう日本」。
ダメ元でアプローチをする。
どう広げて販売していくかは考えていなかったが、売り上げの一部を義援金にして復興に役立てればとの思いと、玉屋存続のために販売していきたいと伝えてみた。
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その後、いろいろとアドバイスをいただきながら形にすることが出来た。
余談ではありますがこの時期の高校野球、春の選抜へ宮城代表 東北高校が出場していた。
東北高校の試合には間に合わなかったが決勝の2校で使ってもらえてばと高野連へ数十枚のワッペンを送った。
そううまくは行かないことの方が多いかもしれない。
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これまでもお世話になっていたハーレーマガジン VIBES 編集部から連絡をもらった。
バイクシーンを通して被災地を取材していたようだ。
被災地からの発信ということで「がんばろう日本」義援ワッペンなどを渡す。
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3月31日。
自宅が津波の被害を受けた知人が玉屋デザインズへ。
自宅と一緒にハーレーも流されたとのこと。
2月に買ったばかりだったはず。
気休めにもならないだろうが「がんばろう日本」を手渡す。
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翌日。
「がんばろう日本」義援ワッペンについて問い合わせメールが数件入っていた。
先日の彼がNSNへ書き込んだようだ。
自分がやりだしたことに賛同してもらえたことで、大袈裟かもしれないが生きる希望と言うか、少しではあるが光がみえた感じがした。
4月11日。
これまで日に数件も問い合わせが突然多くなる。
VIBESの発売日。
流通の遅れでまだ手元にはない。
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ここを境に追いつかないくらいの協力の声。
連日の深夜残業。
地震当日から復旧に動いていた人たちに比べてはスタートは遅くなったが、やっと役に立てる時が来た感じだった。
shinnosuke | 2012.03.13 12:51
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ラモーンさん、こんにちわ。
光景が目に浮かぶ文章に、心震えて感動したしました。
復興への道のりはまだまだ険しいけど東北人の気骨と日本人の誇り(武士道)で必ずや立ち直ることと信じております。
幸いにも無事であった西日本の人間は少しながらでも貢献できるよう、今以上に元気にやっていきます。
どうか、これからもよろしくお願い致します。
タマヤ・ラモーン | 2012.03.13 19:22
SECRET: 0
PASS:
>shinnosukeさん
ありがとう御座います。
なにやら凄いことをやるようですね。
出来ることなら是非顔をだしたいところです。
大阪行きてーなー!!
3/11の区切りとして津波の被害地域を見てきましたが、何も変わっていないような地区もありました。
震災直後は皆被災者でしたが半年を過ぎたくらいから、復興を遂げた者と取り残された者の格差がはっきりと出ている感じです。
私は幸いにしてほぼ以前の生活を取り戻しました方です。
まだまだこれからですね。
でも絶対に復興出来るんです。